| 2009年11月5日 |
すばらしい旅、中国は活気にあふれていた
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栗本 泰治
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日中友好協会倉敷支部と岡山支部の会員17人は、10月17日から21日まで中国の南京、鎮江、上海の旅を終えて全員無事帰国しました。
南京では2年前に新装改築された「南京事件の記念館」を見学、三江大学の学生との懇談。
鎮江市では市の対外友好協会の呉樹南会長を公式訪問、新築されたパールバック記念館の見学。上海では魯迅公園や記念館、内山書店跡や墓地を見学、夜は上海クルーズを楽しみました。
団員から寄せられた旅の感想は以下のとおり。
「ほかのツアーと違って買い物が少なく、たいへんいい勉強になった」
「中国は、どこへ行っても活気にあふれていた」
「鎮江市に行って、街の姿に認識を新たにした」
「元気に旅ができてうれしかった。上海ナイトクルーズはすてきだった」
「内山書店跡や墓所を見学できて良かった」
「魯迅公園でも中国の人たちのパワーを感じた。すばらしい旅だった」
「南京事件の記念館が新築改装され、前にあったものよりずっと内容が充実していた」
「上海の変化におどろいている」
「学生との懇談で、日本が過去の歴史を正しく教えていないという指摘、そのとおりだ」
「政府や学生とはばひろく会えて良かった」
「中国が良くわかった。日中友好は、中国を知ることから始めなければと思った」
「中国ははかりしれない力があると思った」
などなど。 |

鎮江市の呉会長らと記念撮影
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日中友好協会倉敷・岡山支部との交流を掲載
三江学院大学・ホームページで |
10月18日下午,由日中友好协会仓敷分会成员组成的旅行团一行20人来到我校日语系会议室,与日语系的学生展开了一次热烈的交流活动。
该旅行团的主题是“和平•友好之旅”,计划在南京逗留一天,行程之一就是来我校与学生交流。日语系曾田和子、夏秋等5名中外教师和20名学生参加了此次该活动。
在会议室里,交流气氛热烈而融洽,日本友人从社会、生活等大大小小的方面提出了许多问题,希望了解中国大学生的思想和生活现状。同学们踊跃发言、各抒己见,用日语阐述了很多自己的见解。比如说:“日本的自然风光非常美,民族意识很强,漫画、电器用品也让人爱不释手,但是学生中普遍存在的‘欺凌事件’这一恶现象急待改善;日本的大学生是不住集体宿舍的,而我们中国的大学生一般都是4人或6人住一间宿舍,这种生活很愉快,也让我们这些独生子女学会了如何与他人和谐相处;我们的国家现在变得越来越富强,人民的生活也越来越富裕,但是还存在着贫富差距、东西部发展不平衡、看病难等社会问题,我们新一代大学生一定要发奋图强,把祖国建设成为一个富强、和谐的法制国家;对于30年代的那场中日战争,我们可以原谅但是绝不能忘记。现在在日本有人试图修改维护和平的第九条宪法,这是很危险的,为了和平,为了中日两国的人民的幸福生活,有必要对和平宪法第九条进行保护……”等等话题,活动的最后,日本访问团还向日语系赠送了图书、辞典等。
活动中,学生流利的日语口语表达能力和谈话内容的思想性得到了与日本访问团成员的高度赞赏,充分展现了三江学子的风采。该活动在一定程度上也促进了中日民间团体的交流,增进了相互间的了解,也为学生们提供了一次提升专业本领的宝贵机会。
(通讯员 夏秋)
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三江学院ホームページより 左 交流会の会場 右 夏秋先生に日本側から本の贈呈
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三江学院大学で日本語を教えておられる、曽田和子さんから、日中友好協会倉敷・岡山支部の訪中で三江学院と交流した時の模様が、三江学院のホームページに掲載されているとの連絡をいただきました。
内容は次のようなものです。
10月18日午後、日中友好協会倉敷支部の成員による旅行団の一行20人は学校に来て、日本語学科の学生と交流しました。
日本語学科の曽田和子、夏秋などの5人の国内外の教師28人の学生が参加しました。
打ち解けた暖かい雰囲気のなかでの意見交換など熱烈な交流でした。
日本の友人は、社会、生活の大小様々な側面から多くの疑問を出し、中国の大学生の思想と生活の現状を理解しようとしました。学友達は先を争って発言して、おのおの自分の意見を述べて、日本語を使ってたくさん自分の見解を詳しく述べました。例えば『日本の自然の風景はとても美しくて、民族の意識はとても強くて、漫画、電器の用品も人びとは気に入って手放せなくなってしまいます、しかし学生の中で普遍的な存在の「いじめ事件」、このような凶悪な現象は早く改善することが待たれます。日本の大学生は集団宿舎に住まないのですが、私達の中国の大学生は普通、すべて4人あるいは6人が一つの部屋に居住するので、このような生活はとても楽しいです、私達、一人っ子にどのように他人との調和がとれた付き合いするかを学ばせました。私達の国家は今ますます豊かになります、人民の生活はますます富んでいます、しかしまた貧富の格差が存在しています、東と西の不均等発展、医療を受けにくい(中国の医学水準は高度なレベルになっている。しかし、費用が高い。)などの社会的な問題が存在します、
私達の新世代の大学生はきっと気力を振るって向上を求めます、私たちの祖国を繁栄させ、調和がとれている法制の国家に建設します。30年代のあの中日の戦争について、私達は許すことはできるが、絶対に忘れることができない。』
この催しで学生たちの立派なニホン語力と内容のある思想性(学生の発言に)が日本訪問団員の高い評価をえて、十分に三江学院の才気を示しました。
この行事は一定以上に中日民間団体の交流を促し、相互の理解をすすめ、また学生たちに専門学科の向上のため(日本語の能力を高める)貴重な機会を提供しました。
通信員 夏秋
三江学院大学ホームページより
(翻訳:竹内袈裟行・校正:竹内和夫)
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三江学院のHPに今回の交流の記事が出ています。ごらんください。
「新聞驟(馬を削る)焦」の「日中友好協会倉敷分会成員来校・・・」です。10月22日の配信ですから、このままでももう数日見られるでしょう。なくなったら、右下のMOREをクリックすると古い記事をみることができます。
いつも新聞、送っていただきありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
曽 田 和 子
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| 209年10月15日 |
| 四川大地震のあとを訪ねる |
栗本 泰治
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息をのむ被害のすさまじさとすごい復興ぶり
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土砂で30メートル埋まった北川県の災害現場
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この9月9日から16日まで、日中友好協会広島県連企画の「日中友好平和の旅」に参加し、昨年5月の大地震で大きな被害を受けた四川省を訪ねました。
日中友好協会倉敷支部でも街頭カンパ活動をして被災者の支援活動をしましたので、その復旧状況を会員に知らせたいと思ったのです。
広島県と四川省は友好都市関係にあり、今回の地震でも大きな支援活動をしてきました。その活動の蓄積が大きくものを言って、被災地の子どもたちが学ぶ仮設校を訪れたり、奥地の震源地である北川県の災害現場を目の当たりにすることができました。今回の旅に参加して本当によかったと思いました。
四川大地震の被害については、大体のことは知っていましたが、実際の現場を見ておどろきました。阪神大震災の30倍にもなるというM8,0 の破壊力のすごさに息をのみました。
北川県の住民16万人のうち、2万人が犠牲となったと聞きました。全体での被害は、死者6万9千余人、行方不明1万8千余人です。まず、その犠牲者のみなさんに心からの黙祷を捧げました。
高層ビルが倒壊し、傾き、高さ30メートルの県庁の建物が屋上部分をわずかに残して地下に埋まっていました。地震後の大雨で山が崩れ、街は埋まっていました。
中国政府は、この街はそのままメモリアルとして残し、北川県の住民全員を隣の安県に移住させるために新しい街作りを急いでいました。
とにかくすごい復興ぶりです
私たちを案内してくれた綿陽市の人民対外友好協会のキョウさんは、「このすばらしい復興ぶりは、世界中からの温かい支援と中国の社会制度や中国共産党の組織力のおかげ」と言います。また、「1978年からの改革、開放政策で、国も地方も力がついてきたからだ」と説明しました。
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子どもたちの明るい笑顔に安心
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明るい笑顔がもどった罹災地の子どもたち
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広島県連からの支援募金百数十万円で、仮設校の子どもの机や椅子が寄贈されたということもあり、被害地の安県で仮設の小中学校を訪ねました。
最初に訪れた四川省の人民対外友好協会の秦琳会長から「みなさんと会えてたいへん嬉しい。昨年の大地震の際は、ご支援ほんとにありがとう。昨年5月12日の大地震の後の異常気象で、9月には、8時間以上の大雨、1万回以上の雷に遭い、被災地はまた山崩れに見舞われた。1年後のいま、復興作業は順調に進んでいる。被災地の学校も今年9月の新学期より、ほとんどの子どもが新しい学校に通えるようになった」とのあいさつがあったので、とくに頼んで残っている仮設校を訪ねたのです。
訪ねたのは、綿陽市安県花亥小学校。仮設校舎に着くと副校長さんが出迎えてくれて、すぐ校長先生と会いました。50歳代のベテラン校長でした。この仮設校の全児童3000人のうち1000人は、新設校に移り、現在は2000人とのことでした。1年生が学ぶ1班級(68人)の教室を訪ねました。
広島県連のお母さんが持ってきたペンケース、コマ、各50個、ぱたぱた鶴百個、日本の数字パズルの本、県連からの日中友好協会の名前入りの鉛筆6グロス、ボールペンなどが子どもたちに贈られ、子どもたちは大喜びでした。
子どもたちは「ニーハオ、日本のおじさん、おばさん、よくいらっしゃいました。いつもありがとう。シェー、シェー」と先生の言葉を復唱して中国語でお礼を言いました。
震災で受けた心の傷は深いものに違いありませんが、このような温かい支援がやがて子どもたちの心を癒すだろうと思いました。子どもたちの明るい笑顔にホッと安心です。 無邪気で礼儀正しい子どもたち、お年寄りに席を譲ってくれる子どもたちと記念撮影をして別れました。 |
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| 2009年8月5日 |
「中国の現状を知ろう」・文化講座の開催
第1回理事会
日中友好協会倉敷支部
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倉敷支部では、7月28日に、総会後初めての第一回理事会を開きました。まず第5回総会の感想を出し合いました。
感想では、「市長代理が来られてあいさつがあったのはよかった」、「二胡の演奏で開会したのがよかった」、「全員の発言があった」、「お弁当を出したのがよい、これからも総会ではお弁当を出そう」などの感想が寄せられました。
そのあと総会後の会員の増減の報告があり、岡山支部からの移動で2名増えたことが報告されました。
協議事項では、総会で出された「中国をもっと知りたい」という会員のご意見に、どうこたえるかに議論が集中しました。その結果、「季刊中国」の雑誌の発刊のたびごとに、「中国の現状を知ろう」という文化講座を支部でひらくことになりました。第1回は、この秋から開くことになり、次回の役員会で具体化することになりました。
また、10月の「中国・友好の旅」を広く宣伝すること、中国青年と日本青年との交流会を倉敷で開くこと、「中国料理を楽しむ会」の実施などが協議決定されました。
(栗本泰治)
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新装なった「南京事件大虐殺記念館」の一角にある平和の塔 |
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内山集会二題Ⅱ
大森久雄 |
井原市での内山完造集会のとき、南一平さんが中国人留学生のために魯迅肖像を描かれた。南さんは「漫画内山完造の生涯」の作者。ちょうどその場に居合わせた知人、黒田寛さんが持っていた魯迅の詩集に一筆頼んだ。ご好意で複写を紹介する。
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開演前、前庭のテント内で日中友好うどんをすすった。ごぼうとギョーザの組み合わせだ。横に座った人はどこかで見た顔だ。石井知事だった。会場ロビーにある内山像の文字を書かれている。それらを少し話し合った。
長野元知事にも、中国蘇州で会ったことがある。
よう来られるんですか。いやあ、まあ、ときどき。例のあいまいな笑い顔だった。
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| 2009年7月25日 |
中国をもっと知りたい
ー倉敷支部 第五回総会ー
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二胡の演奏で始まった倉敷支部の第五回総会
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7月12日、日中友好協会の第五回総会が同市福田町のライフパークでひらかれました。午前10時、会員約30人の参加でひらかれた総会は、まず中国楽器二胡の演奏ではじまり、倉敷市長代理、日中岡山支部理事長、医療生協労組委員長などから来賓あいさつがありました。
大森支部長の開会あいさつ、宮地事務局長の議案提案説明のあと出席者から活発な討論がありました。
討論の中では、「中国の民族問題がよくわからない。もっと勉強したい」、「中国についての学習会を充実してほしい」、「帰国者支援事業をもっと充実させ、岡山県西部に支部をつくって県連の確立を!」、「青年が中国に親しみを持つような活動を工夫してほしい」という要望のほか、「中国へ旅して現地を見て目からウロコが落ちた」、「日中アマチュア囲碁対局ツアーにぜひ参加したい」、「次の南京旅行に期待している」、「日中がふたたび戦うことのないようがんばりたい」などの声が寄せられました。
☆☆ 栗本 泰治 ☆☆
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| 2009年7月15日 |
| 七・七盧溝橋事件記念日で訴え |
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日中友好協会倉敷支部では、7月6日の昼前倉敷駅頭で7・7盧溝橋事件記念日の訴えをしました。
7月7日から9月18日までを「不再戦・平和友好月間」として、その第一歩を踏み出しました。
当日は、支部長をはじめ6人の会員が駅頭で「もうひとつの七夕ー盧溝橋事件」のビラを配り、倉敷駅を利用する市民に平和の尊さを訴えました。また、会員の和泉さんが手作りで作ったケーキがビラと一緒に配られ、ビラを受けとった人びとから喜ばれました。
倉敷駅で訴えを聞いた倉敷芸科大学の中国人留学生Yさんは、「日中友好のために努力しているみなさんを見て勇気づけられました。ありがとうございます。私の友人の中にも盧溝橋事件を知らない人がいるので、このビラをぜひ渡したい」と語りました。また、ビラを受けとったある婦人は、「盧溝橋事件は私の生年月日と同じ日です。よく覚えています。平和が大切ですね。がんばってください」と二度も激励に来られました。
一時間あまりの行動でしたが、会員も逆に激励されました。
☆☆ 栗本 泰治 ☆☆ |
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| 2009年7月5日 |
第58回全国大会
全体発言の場はおしまいに
大森久雄
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第58回大会に参加した。議案はすべて提案どおりに承認された。しかし、問題はあった。
来賓がたくさんお見えになっていると議長は紹介する。たくさんの物、大勢の人。
人にたくさんとは失礼だ。続きましてを連発する。大げさですな。
全体集会での発言は意味がない。時間が限られている、ないと息せききり、間を置かず早口でたたみかける。議案との関連はそっちのけの近況活動報告。それを2時間聞かされる身になってみよ。
その中で、岡山の真田さんの発言は快よかった。ゆったり伸びやかに中国語学習の留意点を話された。
それにしても、いきなり全体発言はやめてよい。分散会に時間をとり、その中で全体に広めるべき事例をわずか選び、雑な分散会報告に代え全体発言にしたらどうか。
どのみち、中国語学習、太極拳、ぎょうざづくりにきり絵ていどだ。それらは日中に入らなくてもできる。
では、日中友好協会に入会するとは何か。
60周年記念大会は新しいスタイルでやらにゃ。
帰りに、羽田澄子演出作品「嗚呼満蒙開拓団」を岩波ホールで見た。同団を送り出し、見捨てた国家を静かに告発した秀作だ。手持ちでぶれ、すぐ横に振るカメラワークにはいらついた。しかし、体験者をじっくり写し取る画面は光った。 |
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| 2009年4月15日 |
内山完造のこと、良くわかった
倉敷支部の「内山完造の生地への旅」 |
内山完造没後五十周年にあたる今年、3月29日、日中友好協会倉敷支部では内山完造の生地井原市を訪ねました。
会員十三人が参加し、「内山完造のことが良くわかった」と好評でした。
十時半に井原駅に集合、井原市の観光バスでゆかりの地をめぐりました。まず小田川沿いの桜橋公園に没後二十周年を記念して建立された内山完造の「頒徳碑」を訪れ記念撮影を行いました。頒徳碑の左側には、内山完造と親交のあった郭沫若が完造逝去3周年に寄せた詩文碑も建立されていました。小田川堤の桜はまだ三分咲きでしたが、花見客が何人も訪れていました。午後からは、井原市吉井歴史民俗資料館で内山完造の展示物や遺墨を見学、そのあと生家跡、生涯学習センター、をへて内山完造の、菩提寺吉井山成福寺を訪れました。成福寺の住職片岡良仁さんから内山完造についていろいろお話を聴き、没後五十周年記念行事の取り組みを聞かせていただきました。 |

井原市の小田川沿い、桜橋公園にある内山完造の頒徳碑の前で
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| 「内山完造没後五十周年記念事業」に参加を約束 |
井原市を訪れた日中友好協会倉敷支部の会員13人は、3月29日の午後3時吉井の成福寺で住職の片岡良仁さんから「内山完造没後五十周年記念事業」の取り組みを聞き、この事業への参加を約束しました。
片岡良仁住職は、井原先人顕彰会の幹事長として今回の記念事業の中心になって活躍されています。
片岡さんは、自分がなぜ内山完造の顕彰活動をするようになったか、その動機や内山完造との関わりなどを話され、完造の人柄、魅力をその生涯をふりかえりながら話されました。
そして、日本と中国との関係は「好き、嫌い」で済まされる時代ではないと強調されました。
没後五十周年の記念事業は、「漫画・内山完造の生涯」に続く大きな事業で、5月17日には魯迅の一人息子 周海嬰さんを北京から迎えて講演会や文化行事を行うのでぜひ協力をしてほしいと言われました。
参加者は、みんなその行事への参加を約束してお別れしました。
栗本泰治 |

片岡良仁さんからお話を聴く倉敷支部の会員 |
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| 2009年3月25日 |
内山完造さんのこと④
─没後50周年に寄せて |
日中友好協会倉敷支部理事長 栗本泰治
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今年は内山完造没後50周年にあたります。先日も、駐大阪総領事の鄭祥林さんが岡山県知事を訪問し、「岡山県は、日中友好の架け橋となった内山完造さんや岡崎嘉平太さんをうんだ日中友好の先進県です」と今後の日中友好の進展を期待するご挨拶があったとTVが放送していました。内山完造さんの出身地、井原市では没後50周年を記念して昨年秋には、完造の生涯を描いた漫画「内山完造の生涯」が出版されました。そして、それに続いて今年の5月には市民主体で記念式を開催するほか、完造と親交のあった作家、魯迅の長男の周海嬰さんの講演会を企画するなど準備が進んでいます。
日中友好協会倉敷支部でも、3月29日には「内山完造の生地を訪ねる旅」を行い、井原市吉井の生地や資料館を訪れます。また、秋には上海の内山書店のあとや魯迅記念館などを訪ね、没後50周年を迎えた内山完造を偲ぶつもりです。
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| 2009年3月25日 |
| 魯迅と内山完造(2) |
日中友好協会倉敷支部支部長 大森久雄
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一
内山完造は明治18年(1885)1月11日、後月(しつき)郡吉井村沢岡(さおか)に生まれた。現、井原市芳井町。高小中退で大阪に奉公に出、後、田口参天堂の上海出張員となり、大学目薬販売に当たる。キリスト教に入信し、井上みきと結婚する。
大正6年(1917)妻がキリスト教関係書物を自宅で内職に売り始める。二階のたんすの上に並べられた100冊ほど。内山書店誕生である。
以降、しだいに本の分野も広がり、冊数も増える。中国人、日本人を問わず読者を信用し、掛け売りにも応じる。盗難にも会う。その都度、借金を払ってくれる人が出たりし、かえって大勢の人に支えられる。
関東大震災後、客のT先生が、蔵洋書3600冊を罹災した図書館へ贈るのを仲介する。その他、書物を通しての日中間の文化交流が語られている。
二
魯迅は昭和2年(1927)10月、内山書店に現れる。46歳。内山は42歳。以後、9年間の親交が始まる。
この点は、近刊の南一平作画『漫画 内山完造の生涯』(先人顕彰会・井原 2008年9月)に簡明に描かれる。
近くに住んでいた魯迅は毎日のように来て、奥の椅子に座り、たばこをすい、茶を喫した。昭和4年、北四川路地の突き当たりに店は移る。写真でよく見る内山書店である。今は中国商工銀行の支店。壁に書店址の板がある。階上に資料室ができたとも聞いた。
魯迅は許広平と結婚する。
翌年、内山は参天堂を退社し、書店経営にうちこむ。国民党にねらわれる魯迅を助ける。
弟嘉吉のやっていた木版画を、魯迅を介して美術学校生徒に紹介する。
三
満州事変、第1次上海事変と日本の中国侵略がすすむ。日本軍からもねらわれる魯迅をかくまう。
昭和7年、魯迅は故孫文の妻、宋慶齢の作った中国民権保障同盟に参加する。同じように参加を希望した内山をおもいとどまらせ、書店経営続行こそ中国人民のためだと魯迅は諭す。また、国民党の人権無視を攻撃する文章を発表し、国内外へ訴えた。
国民党による暗殺が横行する。魯迅は転居する。今の魯迅故居である。ときには内山の自宅へ避難する。
昭和11年、魯迅の体調が悪くなる。須藤医師を頼む。日本での静養をすすめられる。わたしは防波堤になると魯迅は断る。
10月19日、魯迅没。55歳。22日葬送。葬儀委員には蔡元培、馬相伯、宋慶齢、毛澤東らと並び内山完造が入っている。
四
日中戦争期にも内山書店は続く。昭和20年1月、みき没。8月敗戦。日本人居留民の代表委員となり、帰国邦人の世話をする。
昭和22年12月、帰国。翌年より中国漫談を講演。各地で800回を越えた。同25年10月、日本中国友好協会が結成され、初代理事長を勤めた。同28・31年、訪中。昭和34年春、体調をくずす。9月19日、中国の招待で病気療養のため訪中。9月20日、北京の病院で没した。74歳。
没後、自伝というべき『花甲録』が出版された(岩波書店 昭和35年9月)。
今年は没後50年に当たる。
内山完造の業績と評価を啓蒙、啓発する作業を行うのは、わが日中友好協会こそがふさわしい。
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| 2009年3月15日 |
| 魯迅と内山完造(1) |
日中友好協会倉敷支部支部長 大森久雄
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Ⅰ 倉敷支部は2月14日、魯迅を読む会を開いた。参加者は5人。「阿Q正伝」第456章を読んだ。種々の挿話で阿Qの世界が描かれている。
Ⅱ 魯迅を読むと、高校時代を思い出す。「藤野先生」を授業で習った。末尾が忘れ難い。北京の部屋の東壁にかかる先生の写真を見て勇気をふるいペンを持つ。
なんという師か、弟子か。
それから三十年後、北京寓居の部屋をのぞく。写真はあった。
Ⅲ それにつけ、教えていただいた内田先生が思われる。われわれの高校卒業と同時に大学へ移られ、やがて早逝される。42歳。後、遺稿集をいただく。遺影がある。わたしも、「疲れ、倦み、楽をしたいと思うとき」(拙訳、藤野先生)、集を手にし、影を見る。まあ、ぼとぼとやりますかと机に向かう。
Ⅳ 上海の魯迅記念館2階に、内山書店の一角が再現されている。そこが魯迅の座ったところだと教えられた。写真は内山の『そんへえ・おおへえ-上海生活三十五年―』(岩波新書 昭和24年9月)の扉の裏の署名である。古本屋で手に入れたものにあった。伸びやかな文字がよい。
和平は完造の弟。
内山完造は井原市出身のわが日中友好協会初代理事長。今年が没後50年。本の冒頭に上海内山書店の項がある。紹介する。(続く)
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| 2009年3月15日 |
内山完造さんのこと③
─没後50周年に寄せて─ |
日中友好協会倉敷支部理事長 栗本泰治
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内山さんは、その晩佐藤先生宅に寄った私たちにも、気軽に色紙を書いてくださいました。硯と筆を渡すと、自分で墨をすってさらさらと書をしたためられました。ほかの方がどんな色紙を貰われたか覚えていませんが、私がいただいた色紙には、 横眉冷対千夫指 俯首甘為孺子牛 と書かれ、末尾に 鄔其山 と署名がありました。色紙の裏面には、「魯迅精神 一九五七・三・一 内山完造 於 水島」と日付があります。内山さんは質問に答えて「これは魯迅の詩で、多くのものが私を非難しているがじっと我慢し、私は子供にひかれる牛のように、民衆の声にじっと耳を傾けるのみである。という意味です」と答えらたように記憶しています。この詩が好きだとも言われました。内山さんは中国の作家魯迅との付き合い、親交がながく、命がけで国民党政府の官憲から魯迅をかくまったことでもよく知られています。後日、上海の魯迅館を訪れたとき、そこに魯迅の詩が刻まれていました。
つづく |
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| 2009年3月5日 |
内山完造さんのこと②
─没後50周年に寄せて─ |
日中友好協会倉敷支部理事長 栗本泰治
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玉島協同病院には、「共歓共苦」という額がかけられています。1957年3月1日水島での講演が終わって、内山さんは当時水島にあった佐藤義信先生(故人)の家で一泊されることになりました。その晩、日中友好協会水島支部の幹部数人が佐藤先生宅に寄って、内山さんを囲んで懇談しました。
内山さんは、もう七十歳を超えておられましたが、本当に気さくな方で初対面の若い私などにもざっくばらんに話しかけられました。水島協同病院のことをいろいろ聞かれましたので、私が「医療に恵まれない地域の人たちが立ち上がって、医療従事者と手をたずさえて作った病院です」とその成り立ちをお話ししますと、大変感心されて「新中国も、名もない人民大衆が立ち上がって自分たちの国をつくったのです」と言われたのを覚えています。そして、そのあとすぐその場で「共歓共苦」という書を書いてくださったのです。ですからこの「共歓共苦」という言葉には、内山さんの協同病院や新中国への熱い気持ちが込められています。
つづく
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| 2009年2月25日 |
内山完造さんのこと①
─没後50周年に寄せて─ |
日中友好協会倉敷支部理事長 栗本泰治
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日中友好協会の初代理事長であった内山完造さんが亡くなられて今年は50年に当たる年です。生前の内山さんを知る人も数少なくなってきました。
私は1957(昭・32)年、内山さんが亡くなられる2年ほど前一度お会いしたことがあります。「日中友好・講演の夕べ」が倉敷市の水島小学校講堂で開かれた時でした。
その日は200人近くの聴衆が詰めかけました。1949年に新中国が誕生し、1955年には岡山第六高等学校(現、岡山大学)で学んだ中国文化人郭沫若さんが岡山に来られました。そして、後楽園に一つがいの丹頂鶴を送られるなど、日中友好の機運が大いに盛り上がったころでした。水島には、中国からの引き揚げ者もたくさん住んでいました。中国への関心が高かったのです。内山さんは、黒っぽい作務衣姿で教壇に立たれました。飾り気のない好々爺然とした出で立ちで方言を交えながら、わかりやすく日中友好の必要を語られました。
講演の中身は詳しく覚えていませんが「日本と中国はこれほど近くて隣り合っているのに、日本人は中国のことをよく知らない。もっと中国を知らなければならない。そうしないと日本は世界に立ち遅れてしまう。一日も早く講和条約を結ばなければならない。」 大体そんな話だったように記憶しています。
今でもその話は生きています。
つづく
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| 2009年1月5日 |
| 孔乙己の思い出 |
倉敷支部の魯迅を読む会で「孔乙己」を読んだ。クンイーチ。思い出がある。
高校3年生の時、1957年秋ごろだったか。担任の内田先生が、その全文をほとんど読むようにして紹介してくださる。
科挙くずれの田舎の貧乏インテリ。魯鎮の居酒屋で小僧に文字を教えながら嫌われる。代書、時に窃書で食いつないでいる。ある日、いざって現れ、つけを残したまま姿を消す。
今も、まだ、思い続ける。先生は何を伝えられたかったのか。お尋ねする師はすでにいない。われわれの卒業と同時に大学へ移られ、三年後、急逝される。42歳。すでにして47年前である。
中途半端な学問はするなとのご忠告であったようだ。古来稀なる年に近づき、その意味をまたかみしめる。やんぬるかなと、またまさにの感が交叉する。 |
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| 阿Qの世界へ |
12月13日、倉敷支部は魯迅を読む会第5回例会を行った。
10月の岩間一雄氏講演の感想を交流し、阿Q正伝1~3章を読み合わせた。清朝末、辛亥革命期の貧困層の面子、精神的勝利法……。この先の展開が楽しみである。
山縣さんが入手された本邦初訳の阿Q正伝本が紹介され、一同感激した。
読み、語り合い、阿Qの世界へ入っている。
大森久雄
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| 2008年12月15日 |
| 楽しさ一杯元気一杯の忘年会 |
12月6日(土)、倉敷支部では恒例となった美観地区の和食の店“あぶと”で今年を締めくくる忘年会を開きました。
総勢は、岡山支部の事務局長小林軍治さんを含め16人、渋滞時間帯のため数人の遅れをみての始まりでしたが「“がんばる”という言葉があまり好きでない・・」という大森支部長の初めのあいさつのあと、栗本理事長音頭の乾杯で早速宴に入りました。
若干高めの会費ですが、並べられる料理は見栄え、味もなかなかでした。会は飲む程に酔う程に(と云ってもアルコールは自前で)話に花が咲き、論談風発、中国への想い、他の活動分野での話、中央機関紙記事への称賛(三味線の掲載記事)歌こそ出ませんでしたが、意気上がったその場の雰囲気は、来年も元気よくみなさん、活動に頑張る気持ちの表れにみえました。
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| 2008年11月5日 |
初めての文化講座
「魯迅と毛沢東」 |
倉敷支部では、4月より隔月の第2土曜日に「魯迅を読む会」を開催していますが、10月11日(土)は中国の文学、思想史研究者である岡大名誉教授岩間先生をお招きして“魯迅と毛沢東”という演題でお話しをお聞きしました。お話しは魯迅の人柄、作品等に触れると共に文学のみでなく政治的洞察力もあったこと。又、毛沢東の優れた政治性や、文芸に対する考え方など、ユーモラスもまじえて明快にお話しくださり大変参考になりました。
参加者からは、“一寸むずかしくて良く判らなかった”という意見もありましたが、“魯迅について単に文学者としての認識しかなかったが、深い政治的洞察力のあったことを知った”“毛沢東についての評価、二人の相違点や共通点についてのお話しも興味深かった”など寄せられました。ただ、現状の中国についてもお聞きしたかったという要望もだされ、今後の講演会には、そのことを反映させた取り組みをしたいと思っています。
宮地
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| 2008年9月15日 |
| 魯迅を読む会 進む |
倉敷支部は、4月以来、魯迅を読む会に取り組んでいる。
4月12日 「藤野先生」、「孔乙己」
6月14日 「故郷」
8月9日 「村芝居」、「小さな出来事」
これまでの3回は、入門編として、魯迅の少・青年時代の思い出に基づいた作品を読んだ。テキストは学習研究社版「魯迅全集」(丸山昇訳者代表 昭和59年11月)。参加者は4~8人。訳文を参加者が交代で音読し、読後、質問・感想を出し合う。
ともあれ、本文を読み合おうと進めている。
10月11日(土)には、岡山大学名誉教授、岩間一雄さんの講演「魯迅と毛沢東」を予定している。午後2時より4時まで。倉敷市文化交流会館
(美和1‐13‐33)。
ご参加ください。
大森久雄
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| 2008年9月5日 |
| 中国「残留日本人孤児」問題の資料と写真展 |
| 倉敷市役所で開催 |
中国「残留」孤児問題について、先頃孤児に対する新支援法の成立により一定の経済的保障が認められましたが、しかし、生活をする上での様々な困難は続いています。
4月に岡山で行われた「残留」孤児問題について、その発生から現在に到る状況についての資料と写真展示が行われましたが、倉敷市においても、多くの市民に知ってもらおうと倉敷支部では、8月11日から15日の5日間、市役所本庁一階ホール(市の提供)で開催しました。
この間200人の方々が参観されました。
元満州からの引き揚げ者で懐かしがる方、「大変な苦労をしたんだね」「日本での生活も大変で支援をしてあげねば」などの言葉が聞かれましたが、アンケートの中では、「くり返し行ってください。」「沢山の場所で行ってほしい」の他、「戦争の悲劇を二度とおこしてはいけない」、「戦争の犠牲になった人達を、やはり国が何らかの形で救うのは当たり前だと思います。」等々の意見も寄せられました。今後も孤児の方々が心から安心してくらしていけるよう幅広い支援の輪を広げる必要があります。
宮地義男 |

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| 2008年8月5日 |
中国「残留日本人孤児」問題
資料と写真展 倉敷開催決定 |
| -2004年2月20日の提訴から2008年2月21日の終結までー |
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とき:8月11日(月)~15日(金)
時間:11日(月)午前中準備 12:00~17:00
12日~14日(火~木) 9:00~17:00
15日(金) 9:00~12:00 午後片付け
ところ:倉敷市役所1階ロビー
展示内容
・中国「残留日本人孤児」とは
・中国「残留日本人孤児」の歴史
・中国「残留日本人孤児」の実態
・「孤児」訴訟支援の取り組み
・「孤児」問題への理解を得るための諸取組み
・中国帰国者との交流会
・日本語教室のあゆみ
・新「自立支援法」成立と内容 など
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| 2008年7月15日 |
| 第4回倉敷支部総会開催 |
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日中友好協会倉敷支部は六月二十一日、第四回支部総会を倉敷市民会館で開催し、二一名が参加した。岡山支部からは、竹内理事長と小林事務局長が参加しました。
会は、沖縄の楽器・三線(さんしん))の演奏ではじまりました。
大森支部長のあいさつの後、宮地事務局長から、前年度活動のまとめと今年度の活動のすすめ方などについて報告と提案があり、全員から異議なく承認されました。
今年度は、これまで以上に文化活動(中国映画を観る会、魯迅を読む会など)を強め、同時に「工夫をこらして会員拡大で一日も早い一〇〇人の支部を確立し」さらに「現在岡山支部の力を借りている機関紙の郵送から早く脱却し、名実共に支部活動の確立を目指す」ことなどを確認しました。
特別報告として、中国「残留日本人孤児」の鴨井さんと湯口さんから資料一・二のような発言がありました。最後に、今後の活動をより幅広く、内容を深めるため、新たに二名の追加を含む役員体制を選んで総会を終了しました。
宮地 義男
資料一
みなさん、今日は、湯口です。
私は十一年前に撫順から、主人と四男の息子と三人で、日本に帰って来ました。五年前に主人は中国で亡くなりました。
私は掃除婦として働きがんばってきました。
このたび、新支援法ができて安心な老後がおくれるようになりました。
ご支援ありがとうございました。
今後も一生懸命に日本語の勉強をして、がんばっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
資料二
今日は、鴨井です。日中友好協会倉敷支部総会おめでとうございます。
私は昭和六年、市内の浦田に生まれ、七才の時に一家六人は七虎力の開拓団に入りました。昭和二十年八月、一家は離散し、私以外、みな亡くなってしまいました。私は十三才でした。
その後、中国の人々に助けられ、がんばって生きて来ました。
昭和三十一年、中国人の夫と結ばれ、一男一女を設け、一九八六年、日本に帰って来ました。
昨年の十二月、共に苦労をして来ました夫を亡くしました。
新しい支援法ができて、今からと言う時に、旅立ってしまったことをとても残念に思います。今後、夫の分まで、長生きをして、がんばりますので、ご支援をよろしくお願いします。
本日は、このような機会を与えて下さって、ありがとうございました。
今後とも、ひきつづき支援をよろしくお願いします。
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| 2008年7月5日 |
| 第57回全国大会に参加して 曲がり角の大会運営 |
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第57回大会に参加した。議案提案は情勢分析、運動方針の背景、深層に触れず平凡。
全大会の発言は一人5分で延々と続く。山形の帰国者の訴えは印象に残る。お国言葉とやや上気した口調が切々と胸にしみた。
小林さんが帰国者支援に果たした岡山の役割を簡明に述べられた。
全大会討論も、情勢を切り開く取り組みや開催地の活動紹介に重点を置くなど工夫せにゃと思った。
分散会では、倉敷支部の映画鑑賞、魯迅を読む会と大会運営の不備について発言した。
分散会のあり方、参加の仕方は説明されない。弁当を食べている最中、昨日のように着席せよと案内する。初めての参加者が3分の1といいながら雑な運営に終始した。例年通りやっている。知らぬ者が悪いといわぬばかりだ。
諸表彰後も賞状受け取りについては何もいわぬ。会場と受付をウロウロした。
夜の交流会。見事な太極拳の動きを、川の流れのようにはいかぬ調子はずれの歌声がじゃまをする。余興とはいえ、あれでは演者に失礼ではないか。
曲がり角の運営の大会に出向いたようだ。 |
倉敷支部支部長 大森久雄
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| 2008年5月5日 |
| 倉敷支部 4月役員会便り |
倉敷支部四月役員会は、4月22日(火)に開かれ次のことを決めました。
一.第3回中国平和と友好の旅について旅程7月2日~7月6日、南京、鎮江、上海行を確認しました。
二.第5回中国映画を観る会を決定しました。映画「芙蓉鎮」5月17日(土)午後2時より、場所ライフパーク
三.第57回大会代議員を確認。大森支部長が参加する。
四.倉敷支部第4回総会について。6月21日(土)13時30分からを確認。
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| 第1回 魯迅を読む会開催 |
去る4月12日(土)倉敷国際文化交流会館で第1回の魯迅を読む回を開催しました。
宣伝不足で参加が少なかったものの非会員3名も参加しました。次回は6月14日(土)、以降2カ月に1回、第2土曜の午後に行うことにしています。
(宮地) |
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| 2008年3月15日 |
| 倉敷支部理事会便り |
3月4日、2007年度第6回倉敷支部理事会が開かれ、次の事項を協議し、確認しました。
1、第3回中国平和と友好の旅の企画について協議し行き先、日程を確認。
2、第57回全国大会に向けて会員の拡大について協議。
3、中国日本人「孤児」と共に餃子を作って語る集いについて検討。
なお、当日は、会議の前に政府決定の「残留孤児」への新支援法について、「孤児訴訟を支える会」の小林事務局長より説明を受けました。 |
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| 2008年2月25日 |
| 中国東北部平和交流の旅 ④ |
今度の旅で思った事 岩本 巌
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思いがけず、六十二年振りに旧満州の土を踏む事が出来て、感無量でした。
少しは記憶の底に残っている風景があるかと期待もしていましたが、まるっきり。無理も ありません、長い年月はすべてを変えてしまうからです。
七三一部隊跡、私が在満中、いい事をやっている所だと教え込まれていました。が、実はその陰で、非人間的な行為、研究がなされていたとは。森村誠一の『悪魔の飽食』で、ある程度の知識は持っていた心算でしたが、実際に目にして、その実体に触れ、これが、と身の毛もよだつ感でした。これは「後世に残し、戦争とは、を世に訴え続けねばならない」の感を強くしました。
翌日、柳条湖の、満州事変のきっかけとなった所に行き、昔日の面影を偲びたいと思いましたが、此処もすっかり様変わりしていました。
六十四年前、三月十日(戦前は陸軍記念日)でした。此の日は寮生約五百人、旧奉天市大東区東塔街の会社の寮から、四時間程で行軍させられました。軍国主義に支配されていた頃ですから、当時は何の抵抗も感じませんでした。そしてその当時の展示とは全然別のものである事も。
平頂山事件跡は、我々にはその事実は一切知らされていなくて、今回始めて目にする事だったのですが、人が人を疑う事が悲惨な事体を招く結果だ、信じる事の大切さを教えられました。
楊さんの体験談は、涙無しには聞けません。御本人も、ハンカチを目に何度も当てていらっしゃいましたが、時が経っても忘れる事は出来ないでしょう。心中察するに余りあります。
最後に、私の不注意から怪我してしまい、皆様に御迷惑をおかけしました事を重ねてお詫びします。
又、御親切を感謝致します
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| 2008年2月15日 |
| 中国東北部平和交流の旅 ③ |
浅野秀雄
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日中友好協会倉敷支部の企画による「中国東北部平和交流の旅」の案内を大森氏よりいただき、歴史的にも興味ある場所であったので、申し込み参加した。
戦争の歴史を伝える資料館など訪間した。その時の、感想を記す。
○ 七三一部隊、「侵華日軍第七三一部隊罪陳館」、戦争の狂気が生んだ恐るべき人体実験の全貌を知ることができた。展示室には写真や遺物、模型が誇張するでもなく展示してあり、ひどいことをしたもんだと思う。広大な'敷地の一隅にある凍傷実験室跡、ハルピンの冬は寒く、氷点下40度にも達することもあり、その中で水をつけた手を外気にさらさせたり、裸足で戸外に立たせたりなどして凍傷を起こさせる実験の繰り返し。目的は極寒地区の作戦における凍傷治療間題の研究と解決とのこと。この実験を年中実施するため凍傷実験室を立てた由。その廃墟は頑丈で内部は薄暗く気味悪かった。写真で見た高くそびえる煙突を備えた動力炉跡をこの目で確認。森村誠一.著「悪魔の飽食」の舞台=ハルピン平房のこの地を実感し○ 柳条湖、「九・一八歴史博物館」、柳条湖事件=1931年9月18日夜奉天郊外の柳条湖において関東軍は南満州鉄遺を自ら爆破し中国軍のしわざであるとし近くの中国軍陣地を攻撃、この地点から満州事変が起こったというその歴史的舞台に今立っていることを体感。これ以前に奉天事件(1928年6月、張作霖爆死事件)があり、奉天(現瀋陽)は歴史的にも重要な場所。高校の世界史教科書には、この2つの事件は掲載されている。
○ 平頂山―「平頂山惨案遺跡」、平頂山事件=日本軍の村民惨殺事件、平頂山殉難同胞記念碑前で献花、黙祷したあと遺骨館見学。おびただしい数の遺骸、これらはどこか別の場所からもって来て「展示」されたのではなく事件当時のままで残されているとのこと。銃弾が貫通した跡と思われる穴の開いた頭蓋骨、真正面から銃弾を受けたのか、両腕を広げた格好で仰向けになり、口を大きく開いている骸骨、子供と思われる小さな骸骨を守るように上に覆いかぶっている骸骨・・・、現場を前にすると、顔は向けても、目の焦点を合わせて直視し続けるには耐えられなかった。
昼食時のレストランでこの事件の幸生者「楊寶山」さんよりなまなましい話を聞く。母親の下で血が流れ落ちるなか必死で耐えていた様子、その後の10年間乞食のような生活で生き延びた話、目頭をハンカチでぬぐいながらの姿には、胸を打たれる思いだった。
○ 撫順戦犯管理所一映画ラストエンペラーの冒頭で愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝=宣統帝、満州国皇帝)が自殺を図る場面がありますが、その場所がここなんですね。溥儀がそれまでの皇帝としての人生を改め一人民としての心の変遷をどのように迎えたのか、この収容所跡の建物内部を見学しながら、その想いを馳せた
次第である。
○ 今回の旅を一言で表すなら“日本の近現代における「加害」の事実を学ぶ''ではなかったかと思います。
そしてこの加害の側面をあまりにも知らなさ過ぎたように思います。何が起きていたのか、また加害を受けた側の人たちはどう受け止めてきたのか、ということを。平和の大切さを痛感し、戦争をなくすことの重要性を改めて認識した。
雑感
○ 個人的には、台湾の故宮博物院、北京の故宮(紫禁城)を見学したので瀋陽故宮(清朝発祥の地、開祖ヌルハチ・2代太宗ホンタイジが住み、政務を司った所)を見たかった。
当初計画では入っていたが中国側航空会杜の都合で飛行機が午後便になり時間が取れなかった由。旅の性格上、割愛もいたし方ないのではと思う次第。
○ 交通事情、自動車の普及には驚いた。大連は坂の多い所なので、初日バス観光で車窓から眺めていたらやっと一台の自転車通行を見かけた。
あってないような中国の交通ルール、よくも車の多い中人問がすり抜けるものだ。瀋陽では郊外で荷馬車を見た。9年前の瀋陽(宿泊のみ)では、朝の通勤時間帯、荷馬車が自動車とともに堂々と道路上を走っていた。市内バスは全区間1元(約16円)とのこと、安いと思う。高速道路ではETC(料金所をノンストップ通行可)の装置は大連・瀋陽・ハルピンでは見かけなか
った。そのうち普及すると思う。
○ トイレ事情、宿泊した3つのトイレ便器は「TOTO」のマーク入り。瀋陽では朝方水が少しだけ連続的に流れていて、弁を押しても一気に流れず、使用不可。ロビーのトイレに行く。ウオシュレットの装置はどこもなかった。公衆トイレ、ハルピンの松花江近くの公園で1元の有料トイレに行く。小屋の扉を開けたらそこには小さなドラム缶が置いてあるだけだった。これには一寸驚いた。有料の公衆トイレは他にも見かけたが、早く無料のきれいなトイレの設置が望まれる。
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| 2008年1月25日 |
| 中国東北部平和交流の旅 ② |
片岡淑子
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秋というには少々寒かった中国の旅。観光気分で参加した私に、もうひとつの中国との出合いの旅でした。行く前に「悪魔の飽食」を再読して現場に立った時、予想よりもっとひどい日本軍の行為に震えと胃の痛みを覚えました。この資料館は世界中の人々に、日本人の恥をみせつけるようでいやな気分になりました。でも歴史は変えられません。この現実を私達は背負っていかなくてはなりません。 この旅に出るまで、9.18事件や平頂山惨殺事件てなんなのか知りませんでした。これでもか、これでもかと次々に尋ねた資料館、少々疲れました。特に平頂山での白骨体、今なおその苦しみの表情、目に焼きついて離れません。この人たちの魂を静めるために私は何をしたらよいのでしょうか。若い人たちに戦争の愚かさと残酷さを語りついで行こうと思っています。
瀋陽から大連までの汽車の旅はよかったです。車窓からの雄大な風景、ちょうど太陽の沈む時間、ロマンいっぱいでした。そして出合った中国の青年達の人なつこい笑顔、今までの胸のつかえが取れました。ガイドしてくださった方々も好感が持て、大変よかったです。
「前事を忘れざるは 後事の師なり」この言葉を今回の旅のみやげとしたい。
お世話をしてくださった方々、どうもありがとうございました。
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平頂山の遺骨の一部 |
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| 2008年1月15日 |
| 12月4日に楽しく忘年会 |
去る十二月四日(火)、少し早めでしたが、倉敷支部の忘年会を行いました。
当日の参加は16名でしたが、おいしい料理と理事長持参の中国酒を味わいながら、それぞれ自己紹介をかねたスピーチを行いました。この年を振返っての意見、中国旅行の感想、中国への思い、日本軍隊の話などなど、多彩な話しに花が咲き、和やか、楽しい忘年会となりました。 |
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| 2007年12月15日 |
| 中国東北部平和交流の旅 |
日中友好協会倉敷支部は、十月十六日~二十日まで中国東北部の大連、ハルビン,瀋陽、撫順を訪問してきました。
参加者の感想文を随時掲載します。 |
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ここはお国を何百里
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長畑 龍介
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| 731部隊凍傷実験室の残骸 |
いつか自分の生まれた地を訪ねてみたい―この長年の思いで、今度の「平和と友好の旅」に参加した。
4歳まで過ごした瀋陽(当時奉天)には、当時の面影はなく、高層ビルが林立する巨大都市に大きく変貌。シャッターを押し続けながらも、やはり異邦人の眼でしか見られなかった。
もし旅行社の観光ツアーで参加していたら、せいぜい中華料理の味しか残らない旅となったであろう。
見学した日中戦争の遺跡、記念館、そして案内人や被害者の方への説明、それは強烈な衝撃であった。
4日目の夕方、瀋陽から大連への列車の窓から見た荒涼とした広野の風景、おそらく日本へ帰っていく4歳の私も見ていたであろう。
新たな感慨にひたりながら、“ここはお国を何百里”の歌と共に、侵略戦争による両国人民の苦悩と悲哀を改めて実感した。
大連から日本へ帰る飛行機の中で、日本にも、原爆や空襲の被害だけでなく、日清、日露、日中、太平洋戦争の実態と本質がわかり、戦争に反対してたたかった人々を顕彰する記念碑が必要だとしきりに思った。 |
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| 731記念館館長のお話を聞く |
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| 2007年10月15日 |
| 柳条湖事件(満洲事変)から67年 |
| 9・18 駅前宣伝 |
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柳条湖事件76周年の記念の日、倉敷支部でも全国統一行動に呼応し、倉敷駅前で10時から11時までの宣伝行動を行いました。
当日も引き続く猛暑の中でしたが、7人の会員が参加し、ビラまき行動とハンドマイク宣伝を行いました。マイク宣伝は5人がそれぞれの持ち味をいかした訴えを行い、ビラは約300枚を渡して行動を終りました。ビラまき中には、“わしも戦争に行ったんじゃ”という声がかかって立ち話が出来るという場もありました。
7,7行動でも感じましたが、侵略戦争問題への関心は薄く、正しい理解を深める為にも、今後も一層の働きかけが大事です。 |
宮地
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| 2007年9月5日 |
倉敷支部第3回定期総会
8月25日(土)に開催 |
日中友好協会倉敷支部の第3回定期総会は、去る8月25日(土)午後2時より、倉敷市笹沖くらしき健康福祉プラザにて開催されました。この日他のいくつかの行事とも重なりましたが、18名が参加しました。
2時からの開会に先だち、本部製作のDVD“泥にまみれた靴で”(侵略戦争参加の元兵士達の証言)を観て、侵略戦争の実態を改めて実感しました。
総会は支部長あいさつの後、前年度の活動報告及び決算報告、監査報告が行われ、その後今年度の活動方針、予算案の提案が行われました。討論の中では、“郵政民営化で通信費は大丈夫か?”“機関紙のむつかしいのは運動が具体化されていないのではないか、もっと具体的なものをのせるべきだ”“孤児問題をもっと知りたい、手助けしたくて入会した”又文書発言で、“企業で若者に反中国、反共の書物を読ます等し、一定の影響を与えているが、これにどう対処すべきか”等々の意見が寄せられ、対中国との友好交流は私達の大切な仕事であるが、云うべきは云う態度も必要との認識で一致しました。討論のあと、議案を満場異議なく承認し、最後に新役員の選出を行って閉会しました。
なお、岡山支部からは小林事務局長が出席、ご挨拶をいただきました。
今年度の役員は以下のとおりで、新しく2人の役員を追加承認しました。 |
支部長
理事長
事務局長
理 事
〃
〃
〃
〃
〃
監 事 |
大森久雄
栗本泰治
宮地義男
大本芳子
河田千春
平井昭夫
星原 徹
早川正樹(新)
山縣武次郎(新)
矢引健介 |
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| 2007年7月25日 |
| 7・7盧溝橋事件70周年に |
| 倉敷駅前で街頭宣伝 |
中国への全面侵略戦争の発端となった1937年7.7盧溝橋事件から70周年のこの日、日中友好協会倉敷支部でも、全国統一行動と歩調をあわせ。倉敷駅頭において訴えのビラ配布とマイク宣伝行動を行いました。当日は役員のほか一般会員とあわせ9人が参加し、道行く人々に声をかけながら、ビラを手渡したり、数人が交代で日中不再戦、平和の訴えをしました。
宮地
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| 2007年2月25日 |
| 安倍内閣の非情を許さない |
日本語教室倉敷の会 講師 山縣武次郎
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「建国記念の日」を認めないセレモニーになぜ中国残留孤児問題なのか。タイトルを見て奇異に感じた。しかし講師の先生方の話しを聞き氷解した。とりわけ東京地裁加藤判決の冷酷無慈悲な暴論に驚き憤りを覚えた。
戦前の戦争や植民地の政策は、「高度な政治的判断」で「司法審査の対象とならない」として逃げ、その一方「満州への移民」と「残留孤児になったこと」とは「法的な因果関係はない」と。これは一体どういうことなのか。「主権は国民に存すると宣言」した憲法の否定ではないのか。中国残留孤児は日本人ではないのか。
幼児期に祖国に見放され、母語を奪われ、長年の間異郷に放置され、帰国してもその多くの人が十分な自立支援も受けられず、生活保護での生活を強いられ、老後に不安を覚えながら生きている。この現実を全く見ない判決であると言えよう。
この背後には歴史教科書問題や教育基本法を改悪し、さらに憲法9条を変えて、「戦争できる国」にしようとする政治の動きがあることを直視したい。
国家賠償責任を認めた神戸地裁判決を控訴した安倍内閣の非情を許すわけにはいかない。その後の政治的ポーズに惑わされることなく、国民的な大運動で「全面的解決要求」の実現を勝ち取ろう。
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| 2007年2月25日 |
中国帰国者日本語教室
倉敷の会・第1回講師団会議 |
昨年九月発足した中国「残留」日本人孤児の方達を支援する日本語教室は、五人の生徒、五人の講師ですすめられていますが、この程講師団の初の会議を、二月十日(土)に開きました。
会議では、先に結成の「倉敷の会」代表山縣先生を中心に、現在の生徒さん達の学習レベルとどういう勉強が必要か、テキストの内容の適否、無理なく楽しく勉強してもらうための方法などについて話し合いました。生徒さん達は会話学習の希望が大きいので、時間の半分位は会話をとり入れ、その中で日本の生活習慣や生活文化なども学びあうこと、又他教室の経験にも学んでいこうという確認をすると同時に、楽しく学ぶという点では、とりあえず中国では無かった、「お雑煮」を作ってたべる会を実行することになりました。
しかし今の問題としては、やはりレベルにあったマンツーマンの進め方が必要であり、講師探しが当面の大きな課題であることから、協力して頂ける方への呼びかけを行おうということになりました。 |
宮地
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| 2007年2月15日 |
| 「中国帰国者」日本語教室・倉敷の会結成 |
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去る9月の議会で、大本市議会議員が中国「残留」日本人孤児への支援を質したことについて、市が検討を約していましたが、この程日本語教室に対する予算計上の内示を得ました。
日本語教室は既に9月から開講していましたが、ここに至って正式に会の発足を行なって対応することが必要となり、1月14日(日)くらしき健康福祉プラザに関係者が集まって結成会をもちました。当日は、生徒、講師、支援者11名が集まり、この会を更にひろめて参加者も増やし、日本語の勉強を進めると共に会員相互の親睦交流を深めることを確認しました。
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宮地
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| 2007年1月25日 |
| 和やかに楽しい望年会 |
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去る12月16日(土)、日中倉敷支部は、「残留」日本人孤児の日本語教室講師団と、市内の美観地区で忘年会を行いました。
当日は、歌や出し物こそありませんでしたが、飲むほどに盛り上がり、中国旅行時の感想、友好運動への思い、また残留孤児問題についての語らいや新年の抱負など、大いに語り合い、交流の出来た会となりました。ただ当日は参加者が17名とやや少なかったことが残念でしたが、参加者から「裸でおつき合いの出来るいい方ばかり、楽しい夜を過ごせた」との言葉を頂きました。 |
宮地
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| 2007年1月15日 |
倉敷労働会館で開く
「残留」日本人孤児問題を考える集い
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日中友好協会倉敷支部では、12月10日(日)、倉敷市内の労働会館で初めて日本人「残留」孤児問題を考える集いを開催しました。
当日は集いに先立って、先に中央本部主催の「平和の旅」に参加した栗本支部理事長から、「日本軍の侵略の跡を訪ねて」として、中国東北部での侵略の足跡をスライド上映しながら、侵略戦争の原因にも触れてお話を聞いたあと、「残留」孤児訴訟を支える岡山の会、小林事務局長より、「残留」日本人孤児を作り出した原因、政府の対応、「孤児」達のおかれている現状について判りやすくお話がありました。
その後裁判の原告でもある二人の「孤児」の方から、それぞれ中国での苦労、帰国後の苦労(言葉、就職、生活)が述べられました。特に言葉の不自由なお一人は、「私は日本人です。でも日本語ができない事がとてもくやしい」と涙ながらに訴えられ、帰国後現在に至る日本での「孤児」の苦しみを述べられたのには、政府の中国帰国「残留孤児」に対する措置への怒りを禁じ得ませんでした。 |
宮地
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